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一月二五日は浄土宗の開祖・法然上人のご命日(御忌:ぎょき)です。その亡くなる二日前に書かれたのが「一枚起請文」(原文はこちら)です。

ご法事の最中、何か仏道の教えを入れたいな。訳のわからん呪文みたいなお経だけではなく、持って帰っていただける言葉はないものか、といろいろ考えた事もあるのですが、結局これが一番良い。と思い定めここ数年は「一枚起請文」を呼んでいます。たった一枚の紙に書かれた短い文章ですが、あの一休さんも「大蔵経(全ての仏教経典)を五回お読みになった法然上人が、お考えを一枚の紙にまとめているのだ。仏道の極意に達した人は、この一枚起請文の香り高きを知るだろう。」と書いているように、知恵では比叡山No.1と言われた法然上人が最後にたどり着いた極みがここにあります。基本は阿弥陀様を信じて南無阿弥陀仏とその名を唱えれば、極楽に往生できるという教えを説いているのですが、私が最近もっとも心を引かれるのは、
「ただし三心四修ともうすことの候は、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり」
という部分で、現代語に訳すと「往生するために必要な三心四修は、南無阿弥陀仏と唱えることに含まれる。もしくは南無阿弥陀仏と唱えるうちに備わってくる」と言うことになります。
三心とは
至誠心 真実の心
深心 深く念仏を信ずる心
回向発願心 何事も往生のためと願う心
四修は
恭敬修 仏様を敬う態度
無余修 他の行を行わないこと
無間修 常に往生を願い念仏すること
長時修 一生貫くこと
ということと解釈されています。
現代語のところで、私は二通りの解釈を示しましたが、私は後者の方を支持しています。まずは南無阿弥陀仏と唱えてみなさい。そうしている内に、三心四修が備わった人間に成長することができる。良い人間になることができる。こちらの方が、南無阿弥陀仏と毎日唱える私には三心四修が備わっていると思うより、ずっとしっくりくるのです。南無阿弥陀仏と唱えるのは、もっと良い人間になりたいという決意表明のような意味もあるように思えるのです。
今の時代はなかなか「信じる」というのは難しい時代です。訳のわからん呪文を唱える事は、非科学的と気恥ずかしいかもしれません。しかし数百年にわたり、声に出して唱えればよい人間になれると言われているのです。試してみても損はないと思います。

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