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 今日は正月23日です。

800年前のこの日、法然上人は両手で朱印を押し、滅後の邪義を防がんがためにと一枚起請文を書かれました。以前にも書きましたが、私は
「ただし、三心四修と申すことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり。」
という部分が最も大切だと思っています。
三心は、観無量寿経に説かれる、往生に必要な至誠心、深心、回向発願心。四修とは恭敬修、無余修、無間修、長時修といわれるその行い方のことです。
至誠心とは心より往生したいと思う気持ち、深心とは深く念仏を信じること、そして回向発願心とは、これまでの善行を往生のためと信じる気持ちです。
恭敬修とは、阿弥陀仏とその聖衆を敬って礼拝すること。無余修とは念仏以外の行を交えないこと。無間修とは念仏を絶え間なく、煩悩を交えずに唱えること。そして長時修とはそれらを命つきるまで続けることです。

う~ん、なかなかハードです。

さて、先ほどの一文ですが、読みようによっては二つの意味に取れます。
一つ目は、往生したいと決心し、南無阿弥陀仏と唱えれば、すなわち三心四修が備わっているという考え方。
二つ目は、南無阿弥陀仏と唱えていれば、そのうち三心も備わり、四修もできるようになってくるという考え方です。

私には、一つ目は簡単なように見えて実はハードルが高く、今という世の中では実は難しいように思えてなりません。むしろ、二つ目の方が自然のように思えるのです。

法然上人が生きておられれば、それは邪義だと教えてくれるでしょうが、800年も経っては自分で考えるほかありません。

自らをより所とし、法をより所とせよ。
これはお釈迦様の遺言でしたね。

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