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少しほとぼりが冷めたので、某大学のアメフト部の事件と関連して思い浮かんだことについて書いておきたいと思います。

歎異抄の十三章には親鸞聖人と弟子の唯円の以下のようなやりとりが取り上げられています。

親鸞「唯円よ、私や仏を信じているか?」
唯円「もちろんです」
親鸞「本当だな? 二言はないな?」
唯円「ありません。聖人の仰ることであれば何でも致します」
親鸞「では、人を千人殺しなさい。そうすれば往生することは間違いなくなる」
唯円「そんなことを仰れても、唯円には人を殺すようなことは一人でも出来ません」
親鸞「先ほど私のことを信じると、何でもすると申したではないか!」
「これで分かっただろう。何事も自分の心の思うままにできるのなら、千人でも殺せるはずだ。しかし、一人も殺せないというのは、お前にその業縁がないからなのだよ」
「お前の心が良いから殺さないのではない。心が善良でもそのような業縁があれば、百人千人と殺してしまうだろう」
「人が自分で善し悪しを判断して実行したとしても、それは業縁によるものであって、阿弥陀仏が本願に従って人々を救済するという働きとは、何の関係もないのだよ」

この段は、いわゆる「本願ぼこり」、悪人正機なのだからより悪事を働いた方が阿弥陀仏の救済に浴しやすくなる、という邪説を批判した部分です。今回のニュースでの、非常に真摯な選手の態度を見ていると、ふとこのシーンが思い浮かび、そういう業縁であったとしかいいようがないと思ってしまったのです。
部活の指導、雰囲気に問題があったのは間違いないと思います。そういう「空気」は他の選手も語っています。しかしその空気の中で、同様のプレーが過去あったという話はあまり聞きませんし、その指導や雰囲気が嫌で多くの部員が前年に退部したということからも、選択肢はあったはずです。アメリカの青春映画を見ていますと、アメフトチームがよく登場しますが、そこでの言葉使いは「殺せ、倒せ、やっつけろ!」といった乱暴な言葉のオンパレードです。そういう文化的背景の中で起きてしまった事件であることは理解しないといけませんし、見た目はごつくとも幼い学生が相手であることも忘れてはなりません。一方、指導者側としても、インナーサークル的な言葉使いが、学生にちゃんと伝わっているかどうかは、年々怪しくなってきていますし、その中に、本当に怪我をさせろという期待がなかったかどうかは怪しいところです。また、なかったとしても選手側がそう受け取ったとすれば、指導者としての責任は免れません。しかし、いずれにしても、そこに人の善悪といった差があるのかと問われれば、皆凡夫であってそれほど大差があるとは思えないのです。

業縁といいますと、前世の行い、カルマのようなとらえ方をする方もおられますが、それは間違いです。前世での行いが悪いから今このような状況に置かれているというような考えは、お釈迦様はきっぱりと否定されています。本来の意味は、時間的空間的な関係性・因縁の中で自分が置かれた、自分が受け取るべき現状という意味で、この業縁から抜け出す方法を探ろうとしたのが仏道の出発点です。

どうすれば良かったのか、どうすれば防止できるのか、という議論はもちろんのこと大切です。しかし一方で、そういう業縁にはまってしまったときに、どうすべきなのかということも、しっかりと考えていかないといけないと思います。

副住職
合掌