合掌するということ

ご法事で合掌される方が少なくなりました。
正確に言えば、お経と共に自然と合掌される方が少なくなりました。坊さんからの希望を言えば、坊さんが合掌している間は参列者にも合掌していて欲しい。読経の間は可能な限り合掌していて欲しい。

合掌とは何か? というような解説はリンク先を読んでただければと思いますが、修行上の意味はといえば、「心を落ちつかせて集中する」第一歩だということです。両手を合わせれば、スマホをいじることはできませんし、爪のささくれをホジホジしたりもできません。

仏道修行の基本は、集中し観察し理解することでです。観察して理解することの対象は他でもない自分自身です。自分自身を観察する手段として合掌して集中するわけです。

仏教では心の働きをシングルプロセッサーだと理解しています。同時に二つのことは考えられない。聖徳太子のような方もおられますが、あくまでも一つのプロセッサーを切り替えて処理しているだけで、平行に処理できているわけではない。同時に行えているように見えて、ある一瞬はこちら、次の瞬間はあちら、とせわしなく切り替えて処理しています。この瞬間瞬間を「刹那」といいます。当然切り替える回数が多くなれば雑になりますしストレスもたまります。観察する力も鈍ります。ですから、座禅にせよ瞑想にせよ、念仏にせよ、ある一点に集中して他のことは考えない、そのトレーニングを徹底して行うわけです。これを三昧といいます。これにより最終的には世界の法則を理解できるようになり、成仏に至ると考えています。

では法事中、合掌して何をすればよいのか。

1.共に声を出し(心の中でも)読経する

檀信徒の手引き、あるいは日常勤行集(いずれも寺務所でお配りしています)に、法事で読むお経がフリガナ付きで載っていますので、共に読み上げましょう。恥ずかしければ黙読でも構いません。

2.「お経を聞いている」と心の中で称える

手元に経本もなく、意味も分からず退屈な場合は、「お経を聞いている」「お経を聞いている」と心の中で称え続けましょう。心は飽きやすいので、しばらくすると「他の人は何やっているんだろう」とか「前の人の髪型がおかしい」とか、「誰それにメッセージを送らないと・・・」といった雑念がわいてきます。その場合は「雑念を考えている」「雑念を考えている」とありのままをそのまま言葉にして心の中で繰りかえします。心はシングルプロセッサーですので、「雑念を考えている」と称える作業よって雑念が追い出され、次第に集中が高まります。雑念がなくなれば再び、「お経を聞いている」と称えることに戻ります。

上のいずれも、心の負担を減らしストレスを減らす作用があります。英語ではマインドフルネスと言ったりします。法事に参加することで、心のストレスを減らし、集中力を高めてより良く生きる。それが法事のもう一つの目的であり、その最初の一歩が手を合わせるという合掌なのです。

合掌