誰がために餓鬼に施すか


ご案内している通り、令和二年(2020年)のお施餓鬼は9月20日(日)の14時より執り行います。猛暑の8月を避けることでお参りしやすくなっていると思いますので、皆様のご参列お待ちしております。


お施餓鬼の案内と一緒に同封しました「お施餓鬼とお盆の話」にも書かれていますが、お施餓鬼は『救抜焔口餓鬼陀羅尼経』というお経に基づきます。ある日お釈迦様の弟子の阿難のところに、「焔口」という餓鬼が現れます。餓鬼とは、常に飲食を求めるものの、手にしたものはすべて火に変わってしまい、延々と満たされることのない欲に苦しんでいる存在です。阿難は焔口に「お前の命はあと3日で尽き、餓鬼の世界に堕ちる」と告げられます。驚き恐怖した阿難はどうしたらよいかお釈迦様に助けを求めたところ、「すべての餓鬼へ施し仏を供養すれば救われる」とお説きになりました。これが施餓鬼法要を行う由来です。


私がこの話を初めて聞いたのは大学に入ったばかりの頃で、腑に落ちなかったことを憶えています。施しを受ける餓鬼がそれを得たいがために持ちかけた自作自演と思えてなりませんでした。餓鬼は自分では食べ物を口にすることができませんので、お坊さんの力を利用してなんとかしようと阿難を脅しているのではないかと感じました。また、どうしてお釈迦様は餓鬼の企みどおりに食べ物を施すように阿難に説いたのでしょうか。「命が尽きる」と脅かされたことに対して、「脅かした餓鬼への施しと仏の供養をしろ」といわれても、どうも腑に落ちません。


これは今の私の解釈ですが、ここに登場する焔口餓鬼というのは、阿難自身の慳貪(むさぼり)の心が映し出されたのではないでしょうか。仏教では、来世の生まれ先は前世の行いによって決まります。つまり、「餓鬼道に堕ちる」と言われた阿難は、餓鬼道に堕ちるだけの理由があったわけです。お釈迦様は、餓鬼に施すという布施行を修することで、その理由となった悪い心を浄化させたかったのではないでしょうか。さらに、お釈迦様が「焔口」だけでなく、「すべての餓鬼」へ施すことを説いたこともポイントです。焔口が阿難の投影だとすれば、阿難自身だけが救済されるのでは意味がありません。自分自身だけではなく、すべての者が救済されることが大切だということをお釈迦様は説いているのではないでしょうか。


そう考えると、施餓鬼は餓鬼に施す法要であると同時に、己の心の卑しさを洗い流すための仏事とも言えます。お盆が先祖供養だとすれば、施餓鬼は心の掃除です。年に1回の大切な仏事ですので、奮ってのご参列お待ちしております。


合掌 見習い