お経を唱えるということ


首相が国会答弁で引用するほどの社会現象となっている『鬼滅の刃』。その作中に、浄土宗にとって大切なお経である『阿弥陀経』が何回か登場します。主に「如是我聞 一時仏在 舎衛國 祇樹給孤独園 輿大比丘衆 千二百五十人倶」と唱えるシーンがあるのですが、これは『阿弥陀経』の始まりの箇所で、現代語訳すると以下のようになります。


如是我聞: 私(阿難のこと。お釈迦さんの弟子の1人)はこのようなことを(お釈迦さんから)お聞きしました。

一時仏在 舎衛國 祇樹給孤独園: それはお釈迦さんがインドの舎衛国の祇園精舎におられた時のことです。

輿大比丘衆 千二百五十人倶:  1250人ほどの修行者が周りで座っていました。


まとめると、「お釈迦さんの弟子である阿難が、インドの舎衛国の祇園精舎で1250人の修行者とともにある説法をお釈迦さんから聞きました。」となります。続いて1250人のうち高僧の名前が羅列され、極楽浄土がどのような場所であるかが描かれます。この「如是我聞 一時仏在」というフレーズはお経の始まりの定番です。日本昔話的に言うと「むかしむかしあるところに」くらいお馴染みの定型文です。つまり『鬼滅の刃』作中で登場するのは、『阿弥陀経』の中ではこれといった特別な意味のない箇所です。ここでのポイントは、お経の意味ではありません。お経を読む、読経には二つの意味があるとされています。一つはお経の意味、お釈迦様の説法を理解しようと繰り返し読む学びです。もう一つは自らの心、精神を安定させ集中力を養う修行という位置づけで、写経にも通じるものです。作中の不死川玄弥も「自らの集中力を極限にまで高めるためにお経を唱える」と言っています。お経を唱えたことがある方は、一定のリズムで唱えるうちに、「呼吸」が整い、心が落ちつくのを感じたことがあるのではないでしょうか。阿弥陀経をお唱えするのは大変ですが、その意味をぐっと圧縮したのが南無阿弥陀仏、すなわちお念仏です。「南無阿弥陀仏」という六文字をひたすら繰り返し唱えるお念仏には、自力ではなく他力、自分の力ではどうしようもなくなったときに阿弥陀様という救いがあるという教えと、唱えるうちに心が落き、集中力を高めるという行が、両方備わっています。なんとも言い難い不安や苦しみに苛まれた際には、ぜひ試してみてください。


余談ですが、私の友人に、飛行機に乗る時にかならず『発願文』という偈文を唱える高所恐怖症の人がいます。『発願文』は、命尽きるときに心が乱れることなく穏やかに極楽に往生したいと願うという内容で、お通夜に読まれることの多い偈文です。お通夜の偈文を飛行機の中で唱えるなんて縁起が悪いと思われるかもしれませんが、『発願文』の内容はまさに「心の安穏」です。もし飛行機でお坊さんがブツブツ言っていたら、お経を唱えて気持ちを落ち着かせているんだなと温かい目を向けてあげてください。

合掌 見習い