経営の世界の格言で、経営者として大成するには、次の3つの体験のうち、いずれかを持たなければならない。というのがあるのだそうです。
その三つとは、戦争、大病、投獄。
昭和の代経営者は、中内㓛にしても瀬島龍三にしても、多くが戦争経験者です。大病でいえば、稲盛和夫や堤清二は若い時に結核を患っています。この二つは生死をさまようどん底の経験とすんなりと理解できます。投獄も昔は獄死する人がおおくいましたから、同じようなことなのだろうと思います。
戦争、大病、投獄というどん底の経験を通じ、生き死にについて腹の奥底から考えた経験、これが偉大な経営者を生んだのではないかと思います。
最近の経営者では、ホリエモンや村上ファンド、井川意高らもいるが生死をさまよう経験と言われると、ちょっと違う気がします。
しかし、医療の整った平和な日本で、戦争や大病を経験済みでないと、大経営者になれないと言われると、ちょっと残念な気持ちになってしまいます。
それぞれの生き死にについての諦観を死生観と言います。どのように生き、どのように死ぬか。それをふまえた生き方といってもよいと思います。
仏教の修行は、この死生観の確立を目指しています。
本来、仏教の修行者は出家者です。仕事を捨て、家族も捨て、世俗を捨てなければ生きていけない。そういう苦しみの中にいる人々が集まって支え合ったのが、お釈迦様の道場です。其れをサンガ(サンスクリット語で「仲間」の意)と呼び、今のお寺につながっています。
ですから、お寺に墓があり、涅槃図や地獄絵があるのは、ある意味当たり前のことなのです。
お墓の前で、手を合わせながら、
人は必ず死んでしまう。
そして、いつ死ぬかは予測できない。
そして、いまこうやって墓の前で手をあわせられることの幸せに感謝し、今を一所懸命いきようと気持ちを新たにする。
それこそがお寺の役割であり、ご先祖様の供養なのです。
これを仏教では、生死一如と言います。