
寺の資料を整理していると、ハラリと和綴じの書類がすり落ちた。
書類には「拙者出世来の経歴・・・・」とある。その左には由木観宏と書かれて押印もある。先代由木先生の曾祖父で龍蔵寺の25世住職である。三譽上人として寺の書類にも頻出する明治期に大活躍した住職である。山門を買ってきたのも、本堂の天蓋を高村東雲(高村光雲の義父)に作らせたのもこの人である。
さらにその左には、「大阪府の平民で大阪市淡路町の商人、故吉田宗兵衛の二男」とある。
寺が発刊した「龍蔵寺の歴史」には、由木観宏は岐阜の出身とあるので新説である。由木先生も確認していない文献かもしれない。先々代が加須市史の編纂に協力した際、提供した古文書の束に挟まっていた。市役所から返ってきたままに、紙袋に無造作に入れられていたので、そのまま放っておかれたのかもしれない。
由木先生は由木がどこから来たのか、八王子の由木村やら、春日部やら、はたまた「龍蔵寺の歴史」にある岐阜やら、素性に関する話が大好きでよく聞かされていたのだが、大阪出身というのは初耳である。私自身も大阪出身なので、聞いていれば忘れるはずがない。
「龍蔵寺の歴史」には、岐阜で生まれで京都の富小路にある本覚寺の住職を経て、増上寺の良雄院に入り、増上寺を徳川家の菩提寺に導いた観智国師の家名である由木姓を頂いて、明治七年に龍蔵寺に入ったとある。
発見した文書には、岐阜も本覚寺も登場しない。別の代の住職と混同したのか。何か別の資料があるのかもしれないが未確認である。
経歴部分を抜き出すと次のようになる。
天保九年(1838)十月十八日生まれ、大阪府下平民、大阪市淡路町一丁目、商人、亡き吉田宗兵衛の二男
弘化元年(1844 6歳)三月から弘化二年三月 大阪淡路町一丁目北邨青雲堂旧寺子屋に於いて旧普通学修業
弘化二年(1845 7歳)四月大阪府生玉寺町西方寺において得度
安政三年(1856 18歳)師僧換 大本山増上寺会下 良雄院住職 脇坂順学を師とする
安政三年(1856 18歳)から安政六年まで増上寺会下新谷泰成学寮において宗学修行
安政四年(1857 19歳)大本山増上寺において宗戒相承
万延元年(1860 22歳)三月より檀林結城弘経寺また、瓜連常福寺において修行
慶応三年(1867 29歳)十二月 大本山増上寺会下良雄院住職任命
明治五年(1872 34歳)七月 大本山増上寺の特薦により、権訓導(※大教院の最下位の宗教官吏位)
明治五年(1872 34歳)十月 依願により良雄院退免
明治七年(1874 36歳)二月 合併大教院にて試験 少講義 教部省
明治七年(1874 36歳)十二月 埼玉県武蔵国北埼玉郡三俣邨大字上三俣龍藏寺 住職申付 埼玉県庁
明治十年(1877 39歳)九月 埼玉中教院にて試験 権中講義 内務省
明治十一年(1878 40歳)十二月 埼玉中教院にて試験 権大講義 内務省
明治二十年(1887 49歳)九月 地方職員埼玉大教会加須中教会長 任命
明治三十四年(1901 63歳)没(筆者補注)
と、本人が記したかなり詳細な履歴書となっている。29歳で良雄院住職になっているので、本覚寺の住職就任は、それより前ということになるが、関東の檀林で修行していた由木観宏が、いきなり京都の寺の住職に就任できるとは考えづらい。しかも本覚寺は格式のかなり高い寺である。おそらく間違いなのではないだろうか。
良雄院というのは増上寺の塔頭の一つだが、廃寺となっており現存しない。塔頭は大きな寺院内に設けられる子院で、老僧の隠居所、あるいは高僧の墓所の管理事務所のようなものだが、数千人も修行僧がいたとされる増上寺の塔頭住職は、エリート中のエリートといえる。江戸末期には50以上の塔頭があった。良雄院は坊中三十坊と呼ばれる塔頭の一つで、増上寺を支える高級僧侶の宿舎ということになる。由木観宏は29歳の若さで良雄院の住職になっており、おそらく異例の若さだったのではないだろうか。出世街道まっしぐらに見える。しかしわずか5年で住職を辞めている。この背景にはどのようなことがあったのだろうか。
そのヒントが、後段に登場する大教院という組織である。
由木観宏が良雄院の住職に就任した慶応3年は大政奉還があった年である。大政奉還は10月で、12月には王政復古の大号令が出されるなど、増上寺にしても大混乱期にあったはずだ。そのような中での大抜擢なのだ。明治維新を迎え、徳川方の権力の象徴であった増上寺にも時代の荒波が押し寄せる。明治元年、いわゆる彰義隊の上野戦争のおりには、増上寺は官軍司令部の宿営地・拠点として強制的に接収される。10月には明治天皇が京都から東京へと初めて行幸する際の休憩地として増上寺の「方丈」が指定される。これは「徳川の聖地を、新しい天皇の権威によって制圧・上書きした」ことを民衆に誇示する政治的パフォーマンスだったといわれている。またこの年には「神仏分離令」が布告され、増上寺のすぐ隣にあり、増上寺が一体として管理してきた「芝東照宮」や「芝大神宮」が強制的に切り離される。
増上寺は幕府から「一万石」という大名並みの領地を認められていたが、幕府の解体に伴いこの経済的権利がすべて消滅。一瞬にして無収入の状況になり、山内にいた約3,000人の修行僧は、明日の食べ物にも困る「飢餓状態」となり、耐えかねた多くの若き僧侶や小僧たちは次々と増上寺を去り、故郷の寺へ逃れるように帰っていく。境内は一気に寂れていくのである。明治3年には、多くの修行僧が退山して空き家となった学寮が、新政府により半ば強制的に買収され、海軍の兵舎、宿舎として転用されていく。そして明治5年、神道と仏教を融合させて国民教化を行う半官半民の国家宗教機関である大教院が設立され、その本部が増上寺に置かれることになる。増上寺のほぼ全域が改めて接収され、本堂は本部となり、良雄院も接収されたようだ。その明治5年、由木観宏は依願により退免となる。大教院に反発しての辞任とも考えられるが、その前後に大教院の役職に就任したり試験を受けたりしているので、そうは考え難い。接収により追い出されたというのが妥当だろう。
良雄院を追い出された後、由木観宏は何をしていたのか?
大教院での資格試験を受けたりしながら立場を上げて、埼玉や神奈川に布教の旅に出たようである。結城や瓜連は若かりし頃修行した地であり、そのようなところも再訪したかもしれない。そして良雄院を追い出されて2年後、明治7年36歳の時に龍蔵寺の住職となり、腰を落ち着けるのである。
ちなみに明治7年の1月、大教院のあり方に反発した一派による放火(諸説あり)により、増上寺は本堂含め壊滅的な打撃を受ける。良雄院がどの程度被害を受けたのかは定かでないが、灰燼に帰した増上寺境内の大部分が東京府に移管され、現在の芝公園となり復興されることはなかったのである。明治11年には清国大使仮公邸として、隣の月界院の住職片山成賀が良雄院と華養院をまとめて貸し出している。その際の署名欄の住所には、芝公園地中 とあり、名目上はすでに芝公園だったのかも知れない。
大教院は、仏教界と神道界の対立により明治8年に解散するが、地方組織は残ったようで、由木観宏はその後も埼玉中教院などを中心に布教を続け、明治20年には加須中教会の会長に就任している。没するのは明治34年、63歳であった。
このように見ていくと、安政3年、その3年前には黒船が来航し、ハリスが通商条約の交渉にやってきた年、世の中まさに革命前夜という年に、18歳の吉田青年は、わざわざ大阪から東京に出てくる。東京での立場を高めようと、本来であれば吉田姓を名乗るべきところ、観智国師にちなんで由木氏を名乗る。異例のチャンスをつかんで29歳の若さで良雄院の住職の座を射止める。明治維新の激動のなかで、その座も長くは続かなかったが、仏教と神道の統合という世の流れにのって、大教院という組織の中で地場を固め、若かりし頃修行した地の近くにある龍蔵寺の住職に落ち着く。その才覚をもって、幕末から明治の激動の世をなんとか乗り切ったといえるのではないだろうか。
余談であるが、小生が通った幼稚園は生玉幼稚園という。実家から生玉幼稚園までは自転車で10分ほどであるが、その通園路沿いに、6歳の吉田少年が小僧として入った西方寺がある。時代は違えども、人生が交差したようで急に身近に感じ、このような長文を書いてしまった次第である。
住職