今日は、毎日読んでいるお経の話をしたいと思います。
倶会堂の椅子にくくりつけている毎日読むお経、これを日常勤行集といいますが、3部構成になっています。
最初が序分。
お香を焚いて道場を清め、佛様をお招きして、日頃の行いを懺悔します。準備段階です。
次が正宗分で本文に当たります。
最も佛様、法然上人が伝えたかったことです。
最期が流通分、結びです。
改めて佛への帰依を誓い、共に極楽浄土に往生しようという決意を唱え、道場に招来した仏様を讃えて、お帰りを見送ります。
この3部構成を明確にするため、区切りとして十念を称えます。
序文と流通分は儀礼的なパートですので、重要なのは正宗分で、そこに据えられているのが四誓偈という偈文です。その冒頭にあるのが次の言葉です。
我建超世願 必至無上道
斯願不満足 誓不成正覚
この世を救う願を建てよう
そして必ずや悟りの境地に到達しよう
この願が叶わないなら
私は悟りなどいらない
阿弥陀如来がまだ修行僧であった遙か昔、宝蔵菩薩と呼ばれた時代に立てた誓いです。
修行僧の熱い思いを感じます。
宝蔵菩薩は世界を救おうと、四十八の願を建てます。
この願が実現できないのであれば、成仏などできなくてよい、と言うわけです。
で、ややトリッキーなのですが、宝蔵菩薩は阿弥陀如来として成仏されたので、この願は達成されたと逆説的に肯定されるわけです。
そして四十八の願の十八番目が、
私を信じて極楽往生を願い、私の名前を十編称える者に、極楽にいけない者はいない
という念仏往生願であり、法然上人や親鸞聖人、また中国の善導大師が、これだと確信した救いの道なのです。
法事などで、なむあみだぶ なむあみだぶ と十編となえる場面がありますが、まさにそれがこの約束の実践なのです。
