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十月のお念仏の会・テンプルモーニングでお配りしたカードは直球の「南無阿弥陀仏」。
浄土宗のお寺としては、一番最初にお配りすべき言葉なのですが、単純であるだけになかなか説明が難しいのですが、なるべく短くその意味を文章にしてみました。

南無(なむ)は、インドやネパールの挨拶「ナマステ~」の語源、ナマスが漢字に音写されたものです。こんにちは~、と同じ使われ方ですが、本来は敬意や信仰、感謝を意味する言葉です。「こんにちは」も、元の意味は「今日は」ですから、挨拶としては意味不明です。現在のナマステもそこまで深い意味はありませんが、本来はそういう意味を込めた挨拶なのです。

ですので、南無阿弥陀仏は、阿弥陀様を信じます、感謝しますという意味になります。阿弥陀様を信じます、と口に称えるということは信仰を告白していることに他なりません。イスラム教でも、「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」と告白するシャハーダ(証言)が、イスラム教徒になる第一歩とされますが、南無阿弥陀仏もそれと同じといえます。

阿弥陀様の何を信じるかというと、現世でも来世でも、阿弥陀様が救ってくれるという救済が現実にあるということです。死後、阿弥陀様に導かれて極楽浄土に転生(往生)し、苦しみに満ちた人間世界に再び生まれることはない。救済は約束されていますので、自ずと現世でも感謝の念が湧き出してくる。ですから、南無阿弥陀仏は信仰の告白であると同時に、阿弥陀様への感謝の言葉でもあるわけです。

南無阿弥陀仏と唱えましょう、という言葉の背景には、このような意味が込められているわけです。

簡単なフレーズではありますが、称えましょうと声をかけても、素直に称える方もおられれば、もじもじと抵抗されて称えない方もおられます。別の信仰をお持ちという方もいらっしゃいますが、なんとなく抵抗があるという方が多いようです。しかしそれは仕方のないことで、これまでの長い人生に起きた因縁がそうさせているのです。ですから、素直に称えられる人はこれまでの修行や積徳によって準備が整っているのです。なんとなく抵抗がある、心の邪念が邪魔をして、素直に口にできない方は、それはそれでこれまでの人生の因縁による結果ですので、もう少し時間がかかるということなのです。。

さて、法然上人は南無阿弥陀仏と称えるうちに、極楽往生間違いなしとされる三つの心、佛を素直に信じる心、深く信じる心、往生を願う心が自然に備わってくると仰っいました。最初から深い信仰を持つことはなかなかに難しいものです。ですので、素直に南無阿弥陀仏と口に称えられるご縁をお持ちであれば、深い信仰がなかったとしても、南無阿弥陀仏と称えてみるうちに、自然と深い信仰が身について成長します。

信仰の浅い人にとっても、深い人にとっても、南無阿弥陀仏と称える行は、このように有り難いものなのです。

住職 合掌