お釈迦様が説かれた修行に3つの瞑想があります。
サマタ瞑想(止の瞑想)
ヴィパッサナー瞑想(観の瞑想)
マイトリー瞑想(慈心観 慈悲の瞑想)
です。
マイトリー瞑想は、自分と他者への慈しみの言葉を繰り返すことで、心を浄化しようとするものです。具体的には、次の文章を読み上げます。
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)
私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々に悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように(3回)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
私の嫌いな人々が幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々に悟りの光が現れますように
私を嫌っている人々が幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々に悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
お釈迦様は、折々にこの言葉を称えよと勧めます。
朝起きたとき、少し時間が空いたとき、寝る前などに称えます。続けることで、心が綺麗になっていくことを実感できると思います。もちろん自己暗示だ、という指摘もあろうかと思いますが、称えようと思う時点で、その縁、種はすでにあるわけで、それを育てるテクニックと理解してください。
さりながらこれをちゃんと称えるには、それなりの時間が必要です。
それならば同じようなことを念じながら 南無阿弥陀仏 と称えても良いのではないかと思います。決意がそこまで固くない、忙しい、凡夫にはその方が簡単だろう思います。
厳密には、瞑想は自分の成長を求める 「自力」の行です。一方、南無阿弥陀仏は阿弥陀如来の本願、仏の慈悲に頼る 「他力」の行です。背景となる救済のメカニズムが違うということになるのですが、実際にやることはかなり似ています。
座って自らの救済を祈る。念じる。南無阿弥陀仏と称える。
もともとお釈迦様の時代も、中国での仏教も、自力や他力を明確には区別していませんでしたし、念仏を集中的に称えることを念仏禅と言ったりもしました。
念仏をとなえ続けた境地として、経典には念仏三昧という言葉が出てきますが、三昧はサンスクリットの「サマーディ」にあたります。サマタ瞑想のサマタと似ています。似ていますが違って、サマタ瞑想やヴィパッサナー瞑想、これを合わせて止観といいますが、この止観によって到達する境地が三昧、サマーディということになります。そう考えると、サマタもヴィパッサナーも念仏も、三昧、サマーディに至る手段ということになり、多少ルートは違いますが、やはり仏教であり、同じ頂を目指しているのです。
余談になりますが、法然上人もおこなった修行に、日想観(私が育った大阪の一心寺は、この日想観の道場ということになっています)というのがあります。西に沈む夕日を見ながら、極楽浄土を思念するのですが、これはまさにサマタ瞑想です。
3つの瞑想は、おもに南伝仏教で行われる伝統的な修行法ですが、こうして見てみると北伝仏教もやはり同じ仏教であり、解釈に多少の違いはあれど、実際に行う修行法はとても似ている、いや同じではないかと思うのです。
合掌 住職