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「龍蔵寺の歴史」にも登場する天保5年の打ち壊し。早稲田大学八丁堀校OC北原進ゼミの皆さんが古文書を解読して「歴史かわら版」に紹介してくださいました。
天保5年(1834年)はいわゆる天保の改革(天保8年)が始まる少し前、文化文政の爛熟した時代を経て、財政立て直しのための貨幣改鋳によりインフレが進んで貧富の差が大きくなった時代(なにか今を描写しているようですが・・・)。天候不順も重なり打ち壊しが多発した時代です。大塩平八郎の乱などの大規模な打ち壊しの先駆けとなるものです。

「龍蔵寺の歴史」では、

1834年(天保5年)、村人が打ち壊しを行おうと龍蔵寺に集まる。夜10時には200人ほどが集まり加須の町の人家の打ち壊しを始めた。翌朝7時頃に寺に戻ってくると、飲食のあと,再び打ち壊しの相談を始めた。それを押しとどめようとした愍誉は逆に刃物で脅かされてしまう。村人は打ち壊しをしない代わりに64両を名主に要求するが、名主はそれに応えず、結局は愍誉がそれを建て替えている。なぜ64両もの大金があったかは定かではないが、本堂の再建費用として蓄えていたのかもしれない。
愍誉は本堂焼失という災難に遭いながらも、1826年(文政9年)に「龍蔵寺縁起文」を書き残している。しかし、せっかく集めた寺の再建費用を失ったのがこたえたのか、翌1835年(天保6年)に遷化している。

となっている。
さて、「歴史かわら版」によると、発端は百姓・半兵衛が高札に一揆参加のポスターを張り出し、寺の鐘を撞き鳴らして村人を集めて打ち壊しを行っている。対象は豊かな米屋町人宅だった。「龍蔵寺の歴史」では、寺の住職から64両を脅し取ったことになっているが、そのことはここには出てこない。半兵衛が三右衛門宅など13宅に押し込み、ねだり取った金は、事情を知らない仲間の女房に預けたことになっている。隣村の打ち壊しの首謀者はねだり取った金で伊勢参りに出かけたりしているので、それに比べれば未遂というべきか。
さてその後であるが、首謀者の半兵衛ほか一名は獄門、金を預かった女房は押込めとなっている。龍蔵寺の鐘を撞き鳴らした喜惣次は追放となっている。
龍蔵寺の本堂は天保6年に着工、天保15年に落慶している。
この事件が堪えたのか当時の住職は翌天保6年に遷化しているが、その年に着工していることを考えると、64両は無事戻ってきたのか、あるいはその遺徳が資金調達を容易にしたのかもしれない。ひょっとすると無事再建なったのは打ち壊しのお陰かもしれない。

さて、いろいろ調べながら書いていると、天保年間は小生が育った大阪の一心寺に関連する事件も起きている。大塩平八郎は、大阪町奉行の与力だったのだが、与力時代の平八郎を一躍有名にしたのが一心寺事件だといわれている。要は妻帯している坊さんを破戒僧として追求したのだ。文化文政を受けての風紀引き締めの一環なのだが、これが浄土宗の東西対立(知恩院vs増上寺)も絡んで大スキャンダルになった。これを追求したヒーローが大塩平八郎だったわけである。余勢を駆ってクーデターを起こすわけだが、その背景には全国で多発していた打ち壊しもあったわけだ。
ちなみに天保の改革の綱紀粛正で江戸を追放され、大阪に滞在中であった第七代市川團十郎(当時海老蔵。ややこしいのだが、七代は新之助→ゑび蔵→団十郎→海老蔵)を訪問中だった第八代団十郎が突如自害するのだが、そういう事もあって墓は大阪にあり、どういう縁か一心寺にある。

最期に、武州の打ち壊しは龍蔵寺再建につながるのだが、一心寺事件は一心寺没落のきっかけとなる。20年後の安政の頃には住職のいない荒れ寺にまでなってしまうのだが、その再建の資金集めとして始められた常施餓鬼法要が現在の一心寺の財政的基盤となっているのだから、まさに塞翁が馬というほかない。


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