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鎌倉時代

龍蔵寺に残されているもので、最も古いものはご本尊の阿弥陀如来像である。この阿弥陀如来像は、1293年(永仁元年)に開眼されたとされている。鎌倉時代は宗教的天才が活躍した時代で、龍蔵寺もその1人である法然上人につながる。この阿弥陀如来像は法然の弟子、親鸞に周辺にいた人々が造ったものである。法然上人は様々な形で迫害を受けたが、親鸞も同様に迫害を受け、越後に流されている。親鸞はその後許され布教のため関東に赴く。この布教の旅の中から出た弟子の性信の弟子、唯信により発願されたものである。像の胸部内側には、11月28日、親鸞の命日に造られたことが記されている。しかし、この阿弥陀如来像が、寺の創建当初からあったかは不明である。

室町時代

龍蔵寺の縁起文によると、龍蔵寺は1355年(文和3年)に教蔵上人により創建されている。利根川に棲み、周辺住民を悩ませた白竜を教蔵上人が退治した際、その頭があったところに寺を建立した。そして頭と尾があったところに銀杏を植えとされている。龍蔵寺と諏訪神社の大銀杏がそれである。

江戸時代

龍蔵寺は家光以来9人の将軍から22石の領地(龍蔵寺領)と諸役免除の御朱印状を賜り、高い寺格を誇っていた。今の加須市土手と大門町の境界を流れる会の川にかかる橋を徒歩橋(かちばし)というが、そこから龍蔵寺までは左右に大きな松並木のある参道であった。橋の土手よりのところには「下乗」の立て札があり、住職と徳川家の関係者以外は乗り物を降り、歩いて行かなければならなかった。もしそれを破ると、寺侍と野次馬に馬や駕籠をとられ、多分の酒代までとられさんざんな目にあったという。当時の境内地は1万6000坪あったと言われている。

龍蔵寺は、火の不始末により1826年(文政9年)、本堂を焼失する。落慶は1844年(天保15年)とされているが、再建中の本堂の瓦を作ることの許可願いが1845年(弘化2年)にされており、実際は1845年以降だったようである。

本堂焼失時の住職は21世愍誉であるが、本堂消失のほか様々な災難に襲われる。

1834年(天保5年)、村人が打ち壊しを行おうと龍蔵寺に集まる。夜10時には200人ほどが集まり加須の町の人家の打ち壊しを始めた。翌朝7時頃に寺に戻ってくると、飲食のあと,再び打ち壊しの相談を始めた。それを押しとどめようとした愍誉は逆に刃物で脅かされてしまう。村人は打ち壊しをしない代わりに64両を名主に要求するが、名主はそれに応えず、結局は愍誉がそれを建て替えている。なぜ64両もの大金があったかは定かではないが、本堂の再建費用として蓄えていたのかもしれない。

愍誉は本堂焼失という災難に遭いながらも、1826年(文政9年)に「龍蔵寺縁起文」を書き残している。しかし、せっかく集めた寺の再建費用を失ったのがこたえたのか、翌1835年(天保6年に遷化している。

本堂の再建を担当したのは、川俣村(羽生市川俣)の工匠・三村正利である。

明治から現代へ

江戸時代から明治に入ると、宗教面でも様々な変化がおきる。

1873年(明治5年)に修験道廃止の令が出され、廃寺になるところが出てきた。その一つが羽生の大聖院である。現在、龍蔵寺にある山門、本尊脇侍の観音菩薩、地蔵菩薩は大聖院からもらい受けたものである。

戦後、農地解放に伴い、寺の経済基盤も大きな影響を受けたが、檀家の力により乗り越えることができ、現在に至っている。

平成に入って龍蔵寺会館、1999年(平成11年)には倶会堂が落慶している。

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