常に念仏することの利益

法然上人は、恵心僧都源信が書いた「往生要集」の注釈書で、常に念仏することの利益を迦才の「浄土論」を引いて次のように述べています。

常に念仏することにより三つの利益がある。三つの利益とは
「一にはもろもろの悪が生ずることなく、たとえ悪の行為によって障害(業障)が生じたとしても消すことができる。二に良い果報をもたらす善い行い(善根)が増し、仏を見たてまつる因縁となる。三によい結果の積み重ねとして、命終の時に臨み心が乱れず、仏が現れ導いて下される」(現代語訳は大橋俊雄の法然全集による)

超訳すれば、念仏を常に称えていれば、より良い人間になれ、周辺の状況も改善して、臨終をこころ健やかに迎えることができる。ということであろうか。念仏を常にするには、そのことを深く信じている必要があるから、三心も自ずと満たされる。三心が前提条件なのか結果なのかは議論が分かれるとことであるが、私としては結果という説を取りたい。

最近、GoogleなどのIT企業で、生産性を高めるリラックス技術として「Mindfulness(マインドフルネス)」が注目されています。これは南伝仏教の瞑想技術「ヴィパッサナー」をアレンジしたものですが、その内容を見てみると念仏を称えるという修行と非常に似ていると感じます。マインドフルネスは、いま起きていることに集中する瞑想法です。基本は自分の呼吸に集中するのですが、雑念が生まれれば、「余計なことを考えている、考えている、考えている・・・」と心の中で繰り返し雑念を追い払います。歩きながらの瞑想では、右足を前に出す、左足を前に出す、と体の動きを心の中で称え、それをどんどん細分化していきます。座りながら、歩きながら、そして最終的には食事をしているとき、風呂に入っているとき、生活全てで「マインドフル」を実践することにより、集中力が増して観察力が高まるのです。IT企業はこの集中力や観察力の高まりを仕事に活かそうとするわけですが、本来のマインドフルネスは、この観察力を自分や世界を観察することに活かして自分を高め、最終的にはこの世界が無我であることを自分の感覚として理解できることを目指すわけです。

念仏にもゆっくり歩きながら念仏を称えたり、礼拝(スクワット)しながら称えたり、あるいは阿弥陀仏のお姿を観察しながら念仏を称えたりといった身体技術を伴う念仏修行があります。正式な僧侶になる最後の修行を加行といって、京都の知恩院に一ヶ月ほどこもって修行するのですが、ほとんどの時間がこれに割かれています(若干のお勉強の時間もありますが)。昨年、ミャンマーの瞑想センターで一週間ほどヴィパッサナー瞑想を体験しましたが、思い出したのはこの時のことでした。例えば善導大師は「観経疏」で「行住坐臥、時節の久近を問わず」念仏をしなさいといっていますが、ヴィパッサナーと同じだと感じました。

そんなことを考えていろいろ調べていると、「摩訶止観の念仏」という考えが浄土宗にもあり、念仏と瞑想についても整理されていました。ちなみに止観の止はサマタ瞑想、観がヴィパッサナー瞑想を差します。同じお釈迦様の教えが根っこなので、当然といえば当然なのですが、大乗の教え、特に浄土教は仏教本来の教えから外れすぎていると言われることも多いので、このような点も改めて指摘しておきたいと思います。

 

※ 境内は今年も萩が咲き始めました。夏暑すぎたせいか、今年は少し弱々しい印象です。